2025年1月14日火曜日

水野の森

 北中の森は所沢市北中と狭山市水野にまたがっているが、北端の水野側に「ロッジ水野の森」という一角がある。柵などで仕切られているわけではないが、モミジやムラサキシキブの若木が植えられていて、晩秋には見事な紅葉が楽しめる。敷地の中には小さなロッジがあり、そこには下のような説明板がある。


 以前にも書いたことがあるが、このあたりは江戸時代はじめまでは住む人のない地域だったらしい。いまもこのあたりでできるのは茶と芋くらいで、田んぼはまったく見かけない。秋には黄金の稲穂の波をいたるところで見ることができ、刈り入れ前のあぜ道に真っ赤な花の列を見せてくれる彼岸花を楽しめた熊本から来たばかりの頃は、所々に茶畑があるほかは砂埃と芋畑ばかりの風景がとても殺風景に感じられた。そんな中で見つけたのが森の散歩コースで、自宅の周辺に広がる平地林は、春から夏の新緑と秋の紅葉と、森から出ると目の前に広がる秩父の山々、そして空気の澄んだ冬の朝にご褒美のように姿を見せる雪をかぶった富士、季節々々の小さな花々、等々、目を楽しませてくれる。

 「開設の趣旨」に書かれているように、水の恵みがあり、古くから人が住む狭山丘陵の農家の次男三男がこのあたりの不毛の土地に「畑一反に林一反」と木を植え、武蔵野の空っ風から家と畑を守るとともに落ち葉で徐々に土地を肥えさせていったらしい。さらに江戸中期には、北の川越藩から農家が入植し、田畑を広げていったという。西武新宿線の線路を越えた向こうに「十四軒」という地名があるが、そのとき入植した14軒の農家が地名の由来である。その地名が掲げられた交差点には小さな社があるが、入植者たちが祭った社なのだろう。

 ロッジの持ち主はそうした入植者から平地林を引き継ぎ守り続けてきた方らしい。15代目ということだから、一世代30年で考えて400年あまり(ちょっと長すぎるか・・・江戸時代中期頃からだとすると300年くらいか?・・・)この雑木林を守り続けてきたことになる。ここを拠点に平地林を守るNPO活動も行われているらしい。

 ところで「百里すすきの原、月の入る山とてなし」と平安時代から言われてきた、とあるが、調べても出典がわからない。室町後期以降の歌らしい「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」というのはというのは出てくるが・・・山もなくただひたすらすすきの原が広がる武蔵野というイメージは、むしろ開拓の始まった江戸時代に作られたものなのかもしれない。