しばらく前から森の小道の比較的日当たりのよいところでスイカズラが花をつけている。最初は白い花をつけるが、しばらくすると花は黄色に変わる。なぜそうなるかはよくわからない。白い花の雄蕊には花粉があるが、黄色い花にはない、とか、受粉と関係があるらしいが、納得のいく説明はみつからない。
水野の森ではフタリシズカの群生が見られる。能の二人静から来ているらしいが、花序の数は二本だけでなく、一本のものから三、四本のものまでいろいろである。
砂野幸稔 blog たまにしか投稿しません
しばらく前から森の小道の比較的日当たりのよいところでスイカズラが花をつけている。最初は白い花をつけるが、しばらくすると花は黄色に変わる。なぜそうなるかはよくわからない。白い花の雄蕊には花粉があるが、黄色い花にはない、とか、受粉と関係があるらしいが、納得のいく説明はみつからない。
水野の森ではフタリシズカの群生が見られる。能の二人静から来ているらしいが、花序の数は二本だけでなく、一本のものから三、四本のものまでいろいろである。
拙論「フランツ・ファノンと言語-フランス的普遍の呪縛」を投稿していた『スワヒリ&アフリカ研究』(大阪大学外国語学部スワヒリ語・アフリカ地域文化研究室)が3月末に発行され、大阪大学の学術リポジトリで公開された。
昨年のファノン生誕100周年という節目に向けて、映画が作られたり、シンポジウムや雑誌の特集などが相次いだが、半世紀前ゲバラとともに「第三世界革命の思想家」としてイコン化されたファノン像が、多少意匠をかえて、今度は世界変革へのパトスをかき立てる思想としてではなく、知的なおしゃべりの題材としてもどってきたような印象を受ける。
この論文は、そうした動きとはまったく関係がない。2年前に発表した論文「『プレザンス・アフリケーヌ』と言語の政治」の姉妹編であり、もともとは中村隆之氏主催の東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究「『プレザンス・アフリケーヌ』研究 新たな政治=文化学のために」(2015-2017年度)での報告が原型となっている。そのときの報告では『プレザンス・アフリケーヌ』についての議論の結びにこの論文のもとになるファノンについての論考をおいていたが、議論の焦点をしぼるために別に論じることにしたのである。
これまでファノンに焦点をあてて論じたことはないが、エメ・セゼールについての卒業論文を書いたとき以来、ファノンは私にとって常に重要な参照点でありつづけた。50年以上前に買ったみすず書房の『フランツ・ファノン著作集』はいまも手元にある。とくに加藤晴久、海老坂武氏訳の『黒い皮膚白い仮面』、鈴木道彦氏、浦野衣子氏訳の『地に呪われたる者』は、当時の日本の製本技術の高さ故に韋編三絶することはなかったが、書き込み、傍線のないページがほぼないほど繰り返し読み込んだ。マスペロの原書の方はまさに韋編三絶した。
しかし、アフリカの脱植民地化の時代を学び続ける中で徐々に分かってきたことは、ヨーロッパ語で思考する植民地エリートたちと同じ問題をファノンも抱えていたということである。おそらく理解してくれる人は多くないと思うが、一度論じておきたいと考えた。セゼールはマルティニックに帰還することで、限界を意識しつつも自らの場を作り上げていくことがまがりなりにもできたが、ファノンには脱植民地化の時代の中でしか自らの場を見いだすことができなかった。ファノンの死はゲバラの死と同様、解決されることのない袋小路の唯一の出口だったのかもしれないと思う。
1950年代から60年代にかけて、むきだしの暴力と殺戮が植民地支配者の言語であった脱植民地化の時代に、ファノンはたしかに被支配者の側にたって自らの思想を語り、それを生きた。しかし、彼の生きた時代から半世紀以上を経て振り返るファノンは、当時の西欧思想のなかで、より具体的には、サルトルとメルロポンティの概念を用いて思索するファノンであり、彼がそのために自らの人生を賭し、自称した「アルジェリア人」ファノンではありえない。アーネスト・ゲルナーが言ったように、アルジェリア革命の基底を形成したのはベン・バーディスらの改革派イスラームの思想であり、ファノンは彼らとはまったく違う場で思考していた。
ファノンが脱植民地化の時代のアイコンであり得たのは、アフリカの脱植民地化を主導したのが英語、フランス語などを通して当時のヨーロッパの変革の思想を身につけた植民地エリートたちであり、ファノンは彼らとともにある限りにおいて、「被植民者」の側に自らの場を見いだしたからにほかならない。しかし、実はこのエリートたちは植民地原住民の代表などではなく、植民地支配者と同じく植民地社会の上に漂う隔絶した社会で植民地支配者と同じ言語で思考する者たちだった。ベン・ベッラらFLN指導部の上滑りな汎アラブ主義や社会主義も実質的にフランス語で語られていたのである。
サルトルはフランス的普遍の外側から見つめ返されることの「戦慄き(おののき)」を感じることができたが、見つめ返されることのない一方的な眼差しであり続けようとしたファノンにとって、見つめ返す眼差しは彼を窒息させるのである。
森を西に抜け、冬は南西に雪をかぶった美しい富士が見えるところで北に向きを変えしばらく進むとふたたび森に入る。森の南側は北側に比べて東西の幅が狭いのだ。南西部は畑に面しているので、どこでも見かける道ばたの草花が見られる。この時期は、オオイヌノフグリの可憐な青い花とホトケノザ、ヒメオドリコソウの赤い小さな花が群生している。オオイヌノフグリとホトケノザは、宇土時代の散歩コースで見かけてかなり早い時期から知っている花だ。 それにしても、「仏の座」というありがたい名前や「姫踊り子草」という可憐な名と比べて「大犬の陰嚢」という命名はなにゆえだろう。「果実の形が雄犬の陰嚢に似ているから」と説明されているが、どういうゆがんだ心と目を持っていればこのハート型の可憐な花が「犬の陰嚢」に見えるのだろう。「星の瞳」という別名があるそうだが、明らかにふさわしいその別名で呼ばれているのを聞いたことがない。
北中の森の別の場所でもユキワリソウが咲いている場所を見つけた。鮮やかな赤紫の花が落ち葉のなかから顔を出している。
奇妙に聞こえるかもしれないが、実はそのことに気づいたのは最近のことである。この家に越してきてから5年近くになるが、最近まで自宅の、それも自分の書斎から富士山が見えるなどということは思いもよらなかった。富士山の眺望があることを一つの価値として家やマンションを選んだのに、後から建ったビルなどに視界を遮られて見えなくなった、という話はときに耳にするが、私に起こったのはその反対のことである。
自宅の西隣は100坪ほどの屋敷林になっていて、午後の木漏れ日が心地よく、朝は小鳥たちが集う姿を楽しめる。そのことはこの家を選んだ理由の一つだった。以前書いたように、ある日この屋敷林に重機が入って、南側の大木を何本か切り倒してしまった。後日、その屋敷林の所有者が我が家との境界の雑草を刈り取っているときに話を聞くと、強風による倒木で近隣に被害を与えることを危惧してとくに危険な何本かを伐採したが、屋敷林は残すつもりだということで、木漏れ日と小鳥たちは安泰だと安心したのであった。そして、屋敷林の南側にある所有者宅の西側にあった高さ十数メートルの並木がすべて伐採されたのが今年の夏だった。おそらく同じ理由であろう。木漏れ日の一部が失われ西日が直に当たるようになったが、それと同時に、南西の方向に富士山が見えるようになったのである。
西武池袋線に乗っているとところどころで車窓から富士山が見えるのだが、こちらに引っ越してきてはじめてそのことに気がついたときには、その大きさに驚いた。というのも、小学生の時2年ほど豊島区の小学校に通っていたのだが、通学路の途中で富士山が見える交差点があり、そのとき見えた富士山はもっと小さかった-というよりも小さく見えた記憶があったからだ。錯視の一種だと思うが、いま見える富士山は、電車の車窓から見える富士山よりは少し小さく見える。
北中の森の散歩コースでも、森を西に抜けたあたりでやはり富士山が見える。それに気がついたのは森を歩き始めてしばらくしてからのことだった。春から秋にかけては霞んで見えないことが多いが、冬は空気が澄んでいて、秩父、多摩の山々の美しい稜線とともにいまでは朝の散歩の楽しみの一つになっている。
半世紀前にアフリカ文学を自分の専門領域として標榜するようになった頃は「アメリカ文学」と聞き間違えられるか、怪訝な顔をされるかだったが、最近では大手書店には「アフリカ文学」というコーナーがあったりし、専門として研究する人たちもずいぶん増えてきて、隔世の感を覚える。最近ついに「アフリカ哲学全史」を表題とする新書が出版され(河野哲也著、ちくま新書)、高く評価する紹介記事を目にするようになった。大方が評価するものを批判するのは狭量と固陋のなせるワザかもしれないが、一言書き置きたい。
西欧のものとされてきた「哲学」を対象化し、人種主義と植民地主義を内包してきたヨーロッパの「哲学」を「脱植民地化する」という構えは了解できる。しかし、通読後の印象としては、残念ながら著者の語る「哲学」というものの底の浅さを感じざるを得ない。
日本の「哲学」「思想」は、実にしばしば欧米の」「哲学」「思想」の輸入学問でしかなく、「哲学者」「思想家」と言われる人々-とりわけ講壇の-は、これも実にしばしば高名な欧米哲学者などの紹介者でしかなかった。この「アフリカ哲学」もこの20年ほどの間に欧米(特に英語圏で)で論じられるようになった「アフリカ哲学」という欧米学会の潮流の輸入にすぎない、という印象が強い。
21世紀に入ったあたりから、欧米、とくに英語圏の人文学の中で「アフリカ哲学」という領域が存在し始め、アンソロジーや総括的紹介書が雨後の筍のように出版されるようになった。そうしたものを片っ端から読んで、チャート式のリストを作り、大急ぎでまとめ上げた、と言ったらいいすぎだろうか。日本語の文献にも目を通しているようだが、これも泥縄式にそろえた文献の都合のよいところだけを切り取ったような感じがする。
エメ・セゼールについての記述を読んでいると、明らかに私の「エメ・セゼール小論」(エメ・セゼール『帰郷ノート・植民地主義論』所収)から引き写したと思われる下りがあるが、それについての言及はなく、彼自身の文章として書かれている。単なる注記漏れかもしれないが、こういう例があると、他の記述についてもどこまで著者自身のものなのか不信感を抱いてしまう。
「知の三点測量を提唱する」という著者の宣言も気になった。川田順三が繰り返し語った「文化の三角測量」については何の言及もないが、聞いたこともないのだろうか。さらに「アフリカの哲学や思想に関する研究が(日本の)アフリカ学の分野で披露されることは、ごく少ないp.10」とまで断言されると、山口昌男や川田順三の業績をどのように捉えているのか聞きたくなる。
最後に論じられる「ヨルバ的認識論」や「アカン語の真理概念」なども聞きかじりならぬ読みかじりの印象が強い。
「ブリュッセルのアフリカ・レストランで「ザイールから来たカトリック神父」が一人で食事をするヨーロッパ人を見て嫌悪感を示した(一人で食べるのは動物で、人間は分かち合うものだ・・・)とか、西アフリカのヤムイモ料理をおいしく食べたら「アフリカ人以外でこんなにフフが好きな人間を初めて見た」と言われたとか、背筋が寒くなるようなクリシェを「本書の意図」で読まされるとため息しか出ない。「アフリカに哲学は存在するか」という著者の最初の問いの底の浅さを象徴している気がする。
これまであまり顧みられることのなかった領域に光を当て、人々が関心を持ち始める契機となることはよいことである。せっかく芽を出し始めたのに、十分に美しくないからと言ってその芽を摘んでしまう心の狭さをとがめられるかもしれない。森の散歩者の繰り言としてここだけの話にしておこう。
『アフリカ研究107』(2025アフリカ学会)に掲載された中村隆之の書評は、礼儀正しく敬意を表しながら、この本の問題を的確に捉えた優れた書評である。横のものを縦にしただけの「紹介」の問題を典型的に表している杜撰な固有名詞表記まで尊重するのはあまりにも「敬意」を表しすぎだと思うが。
ちなみに、ウブントゥということばが最近もてはやされているが、私ははなはだ懐疑的である。人種主義と植民地主義を正当化した西欧的価値に対する対抗価値として提示されるものだが、西欧近代が失った、あるいは破壊してしまったものが、その「近代」によって踏みにじられ否定されてきた非西欧世界にあるという言説は、20世紀後半からしきりに言挙げされてきた。とりわけ「独立」後のアフリカ諸国政権は、強権的統合、あるいは「国民」への動員のためにしばしば「西欧にはない」「アフリカ的」な価値を標榜した。サンゴールの「ネグリチュード」、ニエレレの「ウジャマー」、ンクルマの「アフリカン・パーソナリティ」、モブトゥの「オータンティシテ」など枚挙にいとまがない。類似のものは西欧においても近代の非人間性を批判する対抗価値として提示されることがあった。イリイチのコンヴィヴィアリティなどがそうである。イリイチのコンヴィヴィアリティというのも、近代批判は説得力があるが、対校価値として示されるのはなにかぼんやりした「心の豊かさ」や「人と人とのつながり」やらでしかなく、結局は中世回帰ではないか、という批判もあった。
何よりも、こうした議論がされるとき、とりわけ日本では竹内好がその問題を指摘した「近代の超克」をめぐる議論を想起する必要があるのではないか。
思想、哲学というものは、それを語ることでなにかほんわかとした気分になるのではなく、変革への具体的な実践へと人を促すものだったはずではなかったか。
少し体調を崩して2週間ほど森に行けなかった。久しぶりに森を歩くと、彼岸花が咲いていた。
宇土にいた頃は、ウォーキングコースになっていた轟水源公園までの間にはあちこちで彼岸花を見かけた。稲穂が黄金色に実った田んぼのあぜ道などに沿って彼岸花が一列に並んでいる光景は美しかった。泉村に向かう道路沿いの田んぼなどでは、さらに見事な彼岸花の列を見ることができた。しかし、このあたりには田んぼはなく(関東ローム層の痩せた土地で、見かけるのは芋畑と茶畑ばかりだ)、彼岸花の列を見ることはない。数本がポツンと咲いているだけだが、それでも数日は目を楽しませてくれそうだ。
数日間降り続けた雨がいっときやんだので数日ぶりに森を歩いた。雨の前の炎暑の森ではアブラゼミとミンミンゼミの鳴き声が暑さをいや増しにしていたが、今朝はヒグラシの声が立秋を感じさせてくれた。ツクツクボウシも声をそろえている。ちなみに、ツクツクボウシの漢字名も寒蝉で、どちらも指すらしい。鳴き声はまるで違うのだが、晩夏、初秋の蝉ということで一緒くたにされているのだろうか。
それはともかく、春秋がほぼなくなり、夏の炎暑が常軌を逸した水準まで達しても、はるか昔に考えられた二十四節季七十二候が時折時節に合致するのは、古人の知恵の証か、それとも希望的正常化バイアスなのか。
白水社の『ふらんす』という雑誌で連載されている「アフリカン文学への招待」というシリーズに「<アフリカ文学>の時代の終わり」という短い文章を書いた(8月号)。むかし翻訳したモンゴ・ベティの『ボンバの哀れなキリスト』の紹介に絡めて、グギやセンベーヌについても少し触れた。なにかおしゃれな響きのある「アフリカン文学」といういことばには若干の違和感と喪失感を抱く。露骨な人種主義と支配の暴力がまだ生々しい現実である一方で、「人間」を存在させようとする強烈なエネルギーが熱く歴史を動かしていた脱植民地化の時代に生まれ、個々の作家、作品が社会にとって、世界にとって、しばしばとてつもなく大きな意味を持った「アフリカ文学」は、たぶんもう過去のものになった。21世紀に入った頃、「近代文学の終わり」が語られたことがあったが、もうその「終わり」でさえ終わったのかもしれない。
私が「アフリカ文学」の研究者になる最初のきっかけとなったグギの『一粒の麦』については何度か書いたが(たとえば「随想」ページの「熊野寮追懐」)、今回は、しばらく前に書いて結局日の目を見ることのなかったグギについての短い文章を掲載する。毎年秋のノーベル賞シーズンが近づくと、受賞候補にあげられている作家についての予定原稿の依頼が行われる。グギは何度もノーベル文学賞候補にあがっていて、私にも何年か前から新聞社などからの依頼が来ていた。結局グギは受賞することなく今年5月に亡くなった。用意した原稿は行く先を失った。原稿はノーベル文学賞受賞を受けての文章ということになっているので、その点は事実に反するが・・・私なりの追悼文としたい。
ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴは、文学の持つ力が衰退したと言われる現代において、故国ケニア、そしてアフリカだけでなく、全世界に対して、いまも大きな思想的、社会的影響力を持ち続ける希有な作家の一人である。そうした意味で、グギの受賞は驚きではない。サハラ以南アフリカの黒人社会の言語文化を背景とする作家としては、ナイジェリアのウォーレ・ショインカ(1986年)に次いで二人目の受賞者になる。
グギは、イギリスの入植者植民地であったケニアで、貧しい小作人の子として1938年に生まれ、マウマウ戦争と呼ばれた反英独立戦争のただ中でその思春期を送っている。その後、当時東アフリカの最高学府といわれたウガンダのマケレレ大学を経て、イギリスのリーズ大学で学んだ。在学中に東アフリカ最初の英語小説として出版された自伝的小説『泣くなわが子よ』(1964)は、兄がマウマウ戦争に参加し家族も弾圧にさらされる中で、一人エリート校に通う少年の苦悩と成長を描き、作家としての名声を確立した第三作『一粒の麦』(1967)は、独立に向けてのたたかいの中の人々のドラマと、それが残した傷跡と希望をみずみずしい筆致で描いている。
イギリスからの帰国後、グギはナイロビ大学英文科の教員となったが、1977年、その年に出版された小説『血の花弁』が政府と支配層へのあからさまな批判とみなさた上に、同様の批判を持ったギクユ語による民衆劇を制作、上演活動を行ったことがおそらく理由となって、裁判なしでの1年間の投獄を経験し、出獄後も大学への復帰は拒否され、1982年以降、イギリス、ついでアメリカでの亡命生活を余儀なくされることになった。
この経験は、グギに決定的な決断をさせることになった。グギは、すでに、キリスト教によるアフリカ文化の破壊を批判して、それまで使用していたキリスト教洗礼名ジェームズ・グギを捨て、伝統的命名法によるグギ・ワ・ジオンゴという名に改名するなど、独立後も続く支配層の文化的従属に対する批判的姿勢を明確にしていたが、出獄後、グギは、真のアフリカ文学は植民地支配者の言語である英語ではなく、アフリカ人の言語で書かれるべきであるとし、創作の言語としては英語と訣別し、以後自らの言語であり、民衆の言語であるギクユ語のみで執筆することを宣言したのである。出獄後に出版され、独立後も続く従属を象徴的な手法で批判したギクユ語小説『十字架の上の悪魔』(1980)は、獄中でトイレットペーパーに書き続けたものだったという。その後も『マティガリ』(1986)、 『カラスの魔術師』(2006)などのギクユ語作品を発表する傍ら、ギクユ語雑誌も発行している。
英語、ついでギクユ語の小説作品で高い評価を受けてきただけでなく、グギは評論を通じて発信し続けるその思想によっても大きな影響力を持つ作家である。とくに、アフリカ人がヨーロッパの言語と価値観への従属を脱する必要性を説いた『精神の非植民地化』(1986)、欧米の資本と価値観が支配し、ナショナリズムや人種主義、性差別などが硬直させている諸文化を変革するために「中心を動かす」ことを説く『中心を動かす』(1993)は、広く読み継がれている。
グギは1976年に初めて来日して以来、何度も来日しており、日本の作家、研究者との交流も深い。ギクユ語作品もほとんどが英訳されており、いくつかの小説、評論は邦訳もある。この機会にぜひ一度手にとってほしい。
グギはとは三度会っている。いずれもアフリカ文学研究会が京都で主催あるいは共催したシンポジウムや集会にグギが講演者として参加した際のことで、通訳、アテンド、あるいはシンポジウムの司会としてかなり濃密な時間を過ごした。独特の早口の英語と握手したときの手の温かさを思い出す。
テイカカズラという名前が藤原定家に由来するということはぼんやりと知っていたが、それ以上調べようとしたことはなかった。先日たまたまネットで能の演目「定家」のことを知り、動画でだがはじめて能を通して見た。表題になっている定家は出てこない。ただ定家の恋の妄執が式子内親王の塚にまとわりつく蔦葛となって舞台上にあるだけである。銕仙会という能関係の団体のサイトには次のような要約がある。
京を訪れた旅の僧(ワキ・ワキツレ)が、にわか雨を避けるべく近くの東屋に向かうと、そこへ一人の女(前シテ)が現れ、この地はかつて藤原定家が雨の風情を眺めるために建てた“時雨亭”であると教える。やがて一行を式子内親王の墓に案内した女は、石塔を覆っている葛こそ定家の執心が変じた“定家葛”だと告げる。かつて内親王と定家とは恋仲であったが、世間に浮名が立ったため逢うことが叶わず、そうする内に亡くなった内親王を定家が恋い慕ったために、こうして今なお纏わりついているのだった。女は、自分こそ内親王の霊だと明かすと、束縛の苦しみからの救済を願いつつ、姿を消してしまう。
僧が弔っていると、塔の内に憔悴した式子内親王の霊(後シテ)が現れた。僧は法華経の功徳によって葛をほどいてやり、彼女はついに抜け出すことが叶う。感謝の舞を舞う内親王であったが、彼女はあらわになった自らの衰えを恥じると、むしろ人知れず定家と二人で愛欲の苦海に生き続けることを選び、最後には自ら石塔へと戻ってゆくのだった。
二人の恋は後世の風説に過ぎないという話もあるが、定家は1162年生まれ、式子内親王は1149年生まれで、13歳の年の差があるが、定家がはじめて式子内親王のもとに伺候したのが1181年というから、式子内親王はまだ32歳で、20歳まで賀茂神社の斎院を務めその後も結婚を許されない立場の彼女に19歳の若い定家が大人の色香を感じ恋したというのはありそうな話ではある。そして受け入れることのできない恋情に密かに心乱される内親王の姿を想像するのも難しくはない。
能のゆるやかな踊りとたたみかけるような謡が強い印象を与える。これまで関心を持ったことがなかったが、一度直接見てみたい。
ただ、その後森で木の幹を這い上がるテイカカズラを見るたびに、なにか心穏やかではない。
北中の森は所沢市北中と狭山市水野にまたがっているが、北端の水野側に「ロッジ水野の森」という一角がある。柵などで仕切られているわけではないが、モミジやムラサキシキブの若木が植えられていて、晩秋には見事な紅葉が楽しめる。敷地の中には小さなロッジがあり、そこには下のような説明板がある。
「開設の趣旨」に書かれているように、水の恵みがあり、古くから人が住む狭山丘陵の農家の次男三男がこのあたりの不毛の土地に「畑一反に林一反」と木を植え、武蔵野の空っ風から家と畑を守るとともに落ち葉で徐々に土地を肥えさせていったらしい。さらに江戸中期には、北の川越藩から農家が入植し、田畑を広げていったという。西武新宿線の線路を越えた向こうに「十四軒」という地名があるが、そのとき入植した14軒の農家が地名の由来である。その地名が掲げられた交差点には小さな社があるが、入植者たちが祭った社なのだろう。
ロッジの持ち主はそうした入植者から平地林を引き継ぎ守り続けてきた方らしい。15代目ということだから、一世代30年で考えて400年あまり(ちょっと長すぎるか・・・江戸時代中期頃からだとすると300年くらいか?・・・)この雑木林を守り続けてきたことになる。ここを拠点に平地林を守るNPO活動も行われているらしい。
ところで「百里すすきの原、月の入る山とてなし」と平安時代から言われてきた、とあるが、調べても出典がわからない。室町後期以降の歌らしい「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」というのはというのは出てくるが・・・山もなくただひたすらすすきの原が広がる武蔵野というイメージは、むしろ開拓の始まった江戸時代に作られたものなのかもしれない。
数日前、長雨の合間に森を歩くと、あちこちで倒木が道をふさいでいた。たぶんすでに枯れていたナラの木だろう。今年の夏も常軌を逸した暑さだったから、耐えられずに枯れてしまった木も少なくなかった。ただ、雨の間少し風が強かったとはいえ、こんなに何本もの木が倒れるのは少し異常である。 しかし、森の小径沿いでは秋の花があちこちで目を楽しませてくれる。紅白のミズヒキやキンミズヒキ、あるいはイヌタデ、ヤブラン・・・しばらく前からお茶の花が咲いていたが、実をつけているのもあった。この辺りには狭山茶の産地で、あちこちに茶畑があるが、それだけでなく、武蔵野の強風で畑の土がとぶのを避けるためか、畑を囲む生け垣として茶の木が使われている。そうした茶の木の種が風でとばされて森の道沿いで育ったのだろう。
先週咲いているのを見た彼岸花は、昨日歩いたときにはもう花が終わっていた。