しばらく森の散歩ができない間に、3月から5月にかけて目を楽しませてくれた小径の道ばたの小さな花たちは姿を消し、むせるような森の緑の圧を感じるようになった。ドクダミの白い花があちこちで目につくが、4月によく見かけたセリバヒエンソウの可憐な花がまだ残っているのに気がついた。外来種らしいが、ヒメジョオンのように一面を覆い尽くすように繁茂するのではなく、片隅で控えめに咲いている感じだ。
『プレザンス・アフリケーヌ』は、第二次大戦直後の1947年にアンドレ・ジッドやJ-P.サルトルなどの「進歩的」知識人と、成立して間もない第四共和政のもとで国民議会議員となっていたL.S.サンゴールやエメ・セゼールなどの植民地出身の黒人知識人らを後援者として、アリウン・ジョープが創設したアフリカ系文化誌だが、脱植民地化期に英語圏のパンアフリカニズムに対応するフランス語圏の文化的パンアフリカニズムを牽引し、脱植民地化過程で少なからぬ影響力を持っただけでなく、現在も発行され続ける類い希なアフリカ系文化誌である。
植民地支配が「合法」であり、人種主義が「常識」に属していた時代に、そのような世界に裂け目を生じさせ「アフリカの現前(プレザンス・アフリケーヌ)」を高らかに宣言したこの雑誌が、一つの時代を画したことは確かである。私自身も、これまで書いたものの中でそのように評価してきた。しかし、旧フランス領アフリカ諸国の現在がかつて目指されていたものとはほど遠いものであるだけでなく、大多数のアフリカ人エリート知識人たちにとって相変わらずパリが文化的首都であり続けている現状を見るとき、『プレザンス・アフリケーヌ』が目指していたはずの文化的脱植民地化はどこに行ってしまったのか、この未完の文化的脱植民地化について、植民地宗主国の言語と出版文化に依存し、脱植民地化後も変わらずかつての植民地宗主国の首都で発行され続ける『プレザンス・アフリケーヌ』のあり方そのものにも問題があったのではないか、一度問うてみたいと考えたのが執筆の動機だった。
この論文のもとになったのは、博論を土台にして2007年に出版した『ポストコロニアル国家と言語-フランス語公用語国セネガルの言語と社会』のもとになる研究を行っていたときに、セネガルに直接関係する調査や文献研究と平行して、フランス領アフリカの脱植民地化と言語、文化の問題をより大きなコンテキストのなかでもフォローしておきたいと考えて、揃えておいた『プレザンス・アフリケーヌ』のバックナンバーから言語問題に関する論文や記事について作っておいたメモだった。1947年の第一期から全部揃えると結構高額だったが、たまたま勤務先の大学で特別研究費をもらえたこともあってちょっと無理して購入しておいたものだった。その後、JSTORで無料で閲覧できるようになったので、かなりの金額を費やした大人買いは無駄遣いのようなことになってしまったが、退職後勤務校を離れてからも閲覧できるようになったのはありがたかった。閑話休題。結局、博論では議論をセネガルに絞ったので『プレザンス・アフリケーヌ』には直接触れることはなく、メモはそのままお蔵入りになっていたのだが、数年後にそれをあらためて引っ張り出す機会が一度あった。
カリブ・アフリカのフランス語文学を中心に幅広く文学、思想を論じておられる中村隆之氏が主催された「『プレザンス・アフリケーヌ』研究 新たな政治=文化学のために」(2015-2017年度 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究)にお誘いいただいたのだ。この共同研究は、最終年度に『プレザンス・アフリケーヌ』誌の現編集長も参加する盛大な国際シンポジウムを開催し、さらに第二期まで継続され、浩瀚な報告書を刊行したもので、広く注目を集めた。ただ、私自身は義務を果たすために一度報告を行ったが、研究会の目指すものと私の関心の場所にはかなり隔たりがあるように感じ、第二期は遠慮させてもらった。実際、私の報告を偏狭なアフリカ言語ナショナリズム信奉者による言い掛かり的議論と受け取られた方もあったようだ。
確かに、まだ30代半ばの新進作家であった頃、チヌア・アチェベは自らの使用言語である英語について次のように語っていた。
「自分の母語を捨てて他のものを選ぶのは正しいことだろうか。それは恐ろしい裏切りに見え、罪悪感をもたらす。しかし私には他に選択肢はない。私にはこの言語が与えられたのであり、私はそれを使い続けるつもりだ」。
しかし、私が問題化したかったのは、アチェベが自らの選択について感じた罪悪感でも、その後グギが言挙げしたアフリカ文学の言語ナショナリズムでもなく、まさに「文化の場所」の問題だった。
アチェベが使用した英語もフランス語と同様かつての植民地宗主国の言語だが、現代の英語文化のなかでかつての植民地宗主国であったイギリスが占める位置は、マージナルなものではないとしても、もはや中心ではない。英語の場合は、20世紀後半には、アフリカを植民地支配していたイギリスを凌駕し、北アメリカが大きな文化中心になっている。また、アフリカにも、南アフリカ、ナイジェリアをはじめとして、地域のアフリカ人による英語文化が早くから存在し、活発な出版活動が行われていた。それに対してフランス語圏では、パリのみが文化中心であり続けている。ケベックがもうひとつのフランス文化の発信地になっているが、その存在感はオーストラリア、インド、南アフリカの英語文化の存在感にもおよばない。フランス語文化はいまもパリを中心としている。確かにこの「中心」には、いまでは多くのアフリカ人も参加しているが、フランス植民地帝国にも1914年からアフリカ人国民議会議員がおり、第二次大戦後にはアフリカ人国務大臣もいた。そのことは、しかし、アフリカ人が自らの地域を統治したことを意味するわけではもちろんなかった。
かつて野間アフリカ出版賞という賞があり、アフリカの出版社から出版された書籍をアフリカ人の選考委員が審査していた。1980年の第一回の受賞者は、ダカールの教科書会社「新アフリカ出版」から出版されたマリアマ・バーのフランス語小説『かくも長き手紙』だった。その後、2009年の第30回までに英語、フランス語、ポルトガル語、スワヒリ語などで書かれた180の出版物が選ばれたが、多くがアフリカ各地の小出版社の出版物だった。資金は日本発で、事務局はロンドンに置かれていたが、「中心をずらす」試みとして注目していた。
「中心をずらす(Moving
the center)」と言ったのはグギだったが、1947年の『プレザンス・アフリケーヌ』創刊も「中心をずらす」ひとつの試みだった筈だ。はたして「フランコフォニー」の中心は、少しは動いたのだろうか。