実は1921年のルネ・マランのゴンクール賞受賞とそのわずか二年後に出た日本語訳について、30年ほど前にその背景を、フランスのパリ国立図書館(当時はリシュリューにあった)と日本の国会図書館に通って調べたことがある。
「黒人文学の誕生-ルネ・マラン『バトゥアラ』の位置」1993年10月、『フランス語フランス文学研究』第63号
「大正期に翻訳されたフランス黒人小説-ルネ・マラン『バトゥアラ』と日本の知識人」1994年2月、『アフリカ文学研究』第4号
ルネ・マランの『バトゥアラ』については、「黒人文学の先駆」などという紹介がされることがあるが、実は当時しきりに言挙げされていた「植民地文学」の作品だった。内容も、「アフリカ人の生活を内側から描いた」という紹介がフランスでされたこともあるが(日本でも同じようなことを書いた人があるがおそらくその受け売りだろう)内容をちゃんと読めば、見当外れの紹介だということがよく分かるはずだ。小説そのものは、マランが植民地行政官として赴任していたウバンギシャリ(現中央アフリカ)の「原住民」の生活を、「民族学的な価値を持ち,諸人種の心理を伝える」ものという当時の「植民地文学」の要請に従って小説としたものであり、描かれるのは「文明人」が想定する「未開入の心理」にほかならないのだ。
マランの受賞は、明確に時流によるものだった。ひとつはいま述べた時流としての植民地文学、もうひとつは第一次大戦後のいわゆる「ニグロブーム」-ジャズやボクシングの流行、そして第一次大戦でのアフリカ黒人兵の犠牲への同情-である。イギリス領植民地のベンガル詩人タゴールが第一次大戦直前の1913年にノーベル文学賞を受賞し、フランス人がフランス植民地の「原住民文学」の存在を世界に示したいという願望も、マランのゴンクール賞受賞には無関係ではなかった。
うがちすぎかもしれないが、マランの受賞だけではなく、旧植民地出身の作家のゴンクール賞受賞には、旧イギリス植民地出身者のノーベル文学賞受賞が微妙にからんでいる。マラン以後では旧フランス領植民地出身者としてはじめてモロッコ出身のタハール・ベン=ジェルーンがゴンクール賞を受賞した1987年の前年にはナイジェリアのウォレ・ショインカがノーベル文学賞受賞を受賞しているし、1992年にマルティニックのパトリック・シャモワゾーがゴンクール賞を受賞したのは、カリブ海セントルシアのデレク・ウォルコットがノーベル文学賞を受賞した同じ年だった。
そしてサールのゴンクール賞受賞の一ヶ月前にはザンジバル出身の英語作家アブドゥルラザク・グルナにノーベル文学賞が与えられている。偶然にしては頻度が高すぎるような気がする。
なお、サールの作品が日本語に翻訳されたのは受賞の2年後だが、マランの『バトゥアラ』は翌年には翻訳されている。他の受賞作は1919年にゴンクール賞を受賞したプルーストの『スワン家の方へ』が翻訳出版された1931年が一番早く、他の作品はそもそも翻訳さえされていないものも多いので異例のことだった。注目された理由については前掲の論文で書いた。
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