2025年3月20日木曜日

テイカカズラ

 


 冬の間、コナラなどの落葉樹は落葉し、森は少し明るくなる。3月になると森の小道沿いではウグイスカズラが淡いピンクの可憐な花をつけ始めているが、落葉樹に再び葉が茂るまではまだしばらくかかりそうだ。森の底(地表)は枯れ葉に覆われているが、その下には一年を通してテイカカズラやジャノヒゲなどの緑が広がっている。もっとも広い面積を覆っているのがテイカカズラで、ところどころで木の幹を這い上がり、ときには幹を覆い尽くしている。

 テイカカズラという名前が藤原定家に由来するということはぼんやりと知っていたが、それ以上調べようとしたことはなかった。先日たまたまネットで能の演目「定家」のことを知り、動画でだがはじめて能を通して見た。表題になっている定家は出てこない。ただ定家の恋の妄執が式子内親王の塚にまとわりつく蔦葛となって舞台上にあるだけである。銕仙会という能関係の団体のサイトには次のような要約がある。

 

京を訪れた旅の僧(ワキ・ワキツレ)が、にわか雨を避けるべく近くの東屋に向かうと、そこへ一人の女(前シテ)が現れ、この地はかつて藤原定家が雨の風情を眺めるために建てた“時雨亭”であると教える。やがて一行を式子内親王の墓に案内した女は、石塔を覆っている葛こそ定家の執心が変じた“定家葛”だと告げる。かつて内親王と定家とは恋仲であったが、世間に浮名が立ったため逢うことが叶わず、そうする内に亡くなった内親王を定家が恋い慕ったために、こうして今なお纏わりついているのだった。女は、自分こそ内親王の霊だと明かすと、束縛の苦しみからの救済を願いつつ、姿を消してしまう。

僧が弔っていると、塔の内に憔悴した式子内親王の霊(後シテ)が現れた。僧は法華経の功徳によって葛をほどいてやり、彼女はついに抜け出すことが叶う。感謝の舞を舞う内親王であったが、彼女はあらわになった自らの衰えを恥じると、むしろ人知れず定家と二人で愛欲の苦海に生き続けることを選び、最後には自ら石塔へと戻ってゆくのだった。

 

  二人の恋は後世の風説に過ぎないという話もあるが、定家は1162年生まれ、式子内親王は1149年生まれで、13歳の年の差があるが、定家がはじめて式子内親王のもとに伺候したのが1181年というから、式子内親王はまだ32歳で、20歳まで賀茂神社の斎院を務めその後も結婚を許されない立場の彼女に19歳の若い定家が大人の色香を感じ恋したというのはありそうな話ではある。そして受け入れることのできない恋情に密かに心乱される内親王の姿を想像するのも難しくはない。

 能のゆるやかな踊りとたたみかけるような謡が強い印象を与える。これまで関心を持ったことがなかったが、一度直接見てみたい。

ただ、その後森で木の幹を這い上がるテイカカズラを見るたびに、なにか心穏やかではない。

2025年1月14日火曜日

水野の森

 北中の森は所沢市北中と狭山市水野にまたがっているが、北端の水野側に「ロッジ水野の森」という一角がある。柵などで仕切られているわけではないが、モミジやムラサキシキブの若木が植えられていて、晩秋には見事な紅葉が楽しめる。敷地の中には小さなロッジがあり、そこには下のような説明板がある。


 以前にも書いたことがあるが、このあたりは江戸時代はじめまでは住む人のない地域だったらしい。いまもこのあたりでできるのは茶と芋くらいで、田んぼはまったく見かけない。秋には黄金の稲穂の波をいたるところで見ることができ、刈り入れ前のあぜ道に真っ赤な花の列を見せてくれる彼岸花を楽しめた熊本から来たばかりの頃は、所々に茶畑があるほかは砂埃と芋畑ばかりの風景がとても殺風景に感じられた。そんな中で見つけたのが森の散歩コースで、自宅の周辺に広がる平地林は、春から夏の新緑と秋の紅葉と、森から出ると目の前に広がる秩父の山々、そして空気の澄んだ冬の朝にご褒美のように姿を見せる雪をかぶった富士、季節々々の小さな花々、等々、目を楽しませてくれる。

 「開設の趣旨」に書かれているように、水の恵みがあり、古くから人が住む狭山丘陵の農家の次男三男がこのあたりの不毛の土地に「畑一反に林一反」と木を植え、武蔵野の空っ風から家と畑を守るとともに落ち葉で徐々に土地を肥えさせていったらしい。さらに江戸中期には、北の川越藩から農家が入植し、田畑を広げていったという。西武新宿線の線路を越えた向こうに「十四軒」という地名があるが、そのとき入植した14軒の農家が地名の由来である。その地名が掲げられた交差点には小さな社があるが、入植者たちが祭った社なのだろう。

 ロッジの持ち主はそうした入植者から平地林を引き継ぎ守り続けてきた方らしい。15代目ということだから、一世代30年で考えて400年あまり(ちょっと長すぎるか・・・江戸時代中期頃からだとすると300年くらいか?・・・)この雑木林を守り続けてきたことになる。ここを拠点に平地林を守るNPO活動も行われているらしい。

 ところで「百里すすきの原、月の入る山とてなし」と平安時代から言われてきた、とあるが、調べても出典がわからない。室町後期以降の歌らしい「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」というのはというのは出てくるが・・・山もなくただひたすらすすきの原が広がる武蔵野というイメージは、むしろ開拓の始まった江戸時代に作られたものなのかもしれない。


2024年10月12日土曜日

倒木、秋の花々

 

 数日前、長雨の合間に森を歩くと、あちこちで倒木が道をふさいでいた。たぶんすでに枯れていたナラの木だろう。今年の夏も常軌を逸した暑さだったから、耐えられずに枯れてしまった木も少なくなかった。ただ、雨の間少し風が強かったとはいえ、こんなに何本もの木が倒れるのは少し異常である。

 しかし、森の小径沿いでは秋の花があちこちで目を楽しませてくれる。紅白のミズヒキやキンミズヒキ、あるいはイヌタデ、ヤブラン・・・しばらく前からお茶の花が咲いていたが、実をつけているのもあった。この辺りには狭山茶の産地で、あちこちに茶畑があるが、それだけでなく、武蔵野の強風で畑の土がとぶのを避けるためか、畑を囲む生け垣として茶の木が使われている。そうした茶の木の種が風でとばされて森の道沿いで育ったのだろう。

 先週咲いているのを見た彼岸花は、昨日歩いたときにはもう花が終わっていた。



2024年9月4日水曜日

平地林の伐採2 資材置き場 残土処理場


 3月に道路沿いの平地林が伐採されて更地になってしまった後、しばらくして森の散歩道への入り口になっているところも伐採されてしまった。3月に伐採されたところは売り地の看板が立てられたまま更地のまま残っているが(ただ、2区画のうち1区画は売却済となっている)、こちらはしばらくして重機が入って整地が始まり、8月末には砂利が入れられ塀で囲まれてしまった。実は、この横には以前から森に隣接して大きな資材置き場があったのだが、その資材置き場が拡張されたようだ。

 先日、別の場所で一部木々が伐採されていたので、ここもか、と胸が痛んだが、今日通ってみると、伐採後に何本か苗木が植えられていた。弱ったり枯れたりした木を切って、若苗を植えて森を再生しようということのようだ。少し安心した。

 しかし、心配なことはほかにもある。三年前に越してきた頃はコロナ禍でいろいろな経済活動が停滞していたおかげで森は静かだったが、経済活動の再開とともに森をおびやかすような動きが目につくようになった。森のほぼ真ん中を通る少し広めの道も、以前は、ときどき自転車で森を通り抜ける人たちを除けば、私のような散歩者たちしかいなかったが、最近、大型ダンプが道幅ギリギリを無理矢理進んできて脇によけることを余儀なくされることが多くなった。この道沿いには、以前から、幅10mあまり奥行き100mくらいの空き地があり、入り口がショベルカーと中型トラックでブロックされていたのだが、昨年までは何の動きもなく、気になりながらも半ば慣れてしまっていた。ところが今年に入ってから、ダンプが毎日のように残土を運び込み始め、いまでは5m位の高さまで土砂が積み上げられている。最近はほぼ毎朝、南アジア系の若者を含む数人が常駐している。森に悪影響がないかかなり心配である。


2024年7月17日水曜日

久しぶりに森へ。

 


雨や体調不良などでしばらく森に行けない間に、いろいろな野草が花をつけていた。

花は可憐なのに、アレチヌスビトハギ(荒れ地盗人萩)だとかイヌタデ(犬蓼)だとか、酷い名前をつけられているのが多い。おなじ萩の仲間でも、ミズヒキ(水引)は赤白の水引から来ているのだろう。比較的よい名前がついている。

 春先から咲いているアカツメクサが、森
のそばの運動場でまだ咲いていた。アカツメクサなどというものがあることは、つい数年前まで知らなかった。シロツメクサは、入学したばかりの中学校の校舎の傍らにたくさん咲いているのを見て初めて知ったが、この花を初めて見たのは、退職祝いで筑後川温泉に行ったとき近くを散策していたときだった。

 ワルナスビも酷い名前だが、この名はあまり気の毒に思わない。花を見ようと手を伸ばすと鋭い棘で痛い目にあわされた。花が似ている茄子から来ている名前だが、茄子は棘があっても食すとうまいから許せるが、ワルナスビには寛大な心にはなりにくい。

いま知っている植物の名前の大半は、退職後、森やその近辺を歩いていて覚えたものだ。なんとも心貧しい生活をしてきたものか、と思わないでもない。

2024年7月11日木曜日

グギ・ワ・ジオンゴ、多言語文学叢書


  グギ・ワ・ジオンゴ+グギ・ワ・ミリエ『戯曲 したい時に結婚するわ (もう一つの世界文学/多言語文学叢書) 』(宮本正興訳、三元社)が間もなく出版される。三元社の「多言語文学叢書」の第一弾である。コロナなどがあって遅れ、6年目でようやくスタートした。

 「多言語文学叢書」は、2018年に東京大学東洋文化研究所で開催された「多言語社会研究会」第10回研究大会のあとで行われた多言語社会研究会20周年パーティがきっかけだった。そこで、あまり翻訳されることのない言語で書かれた文学作品の翻訳企画の話題が出たのである。大会からしばらくして本郷の三元社に私と荒井幸康氏(モンゴル諸語)、森山幹弘氏(スンダ語、インドネシア語)などが集まって、企画を相談した。叢書趣意書のたたき台を私が作り、当初「マイナー言語文学叢書」という叢書名を提案したのだが(ドゥルーズ、ガタリが『カフカ——マイナー文学のために』で「マイナー文学とは、マイナー言語による文学のことではなく、メジャー言語のなかにマイノリティが生み出す文学」と言っていたことを念頭においていた・・・)、「何のことか分からない」と大変評判が悪く、結局三元社石田社長の「多言語社会研究会が出発点だから『多言語文学叢書』にしましょう」という提案が採択されたのだった。


 叢書のスタートは日本でもある程度知られているケニアのグギ・ワ・ジオンゴのギクユ語作品からにできればと思い、グギがギクユ語で書き始める前から親交があり、最初のギクユ語作品『したいときに結婚するわ』についても詳細なノートを作っておられた宮本正興氏(スワヒリ語、ギクユ語)に依頼し快諾を得た。丁寧な注釈のついた訳稿と解説文は一年足らずで完成していたのだが、いろいろな事情で遅れに遅れたままになってしまった。長くお待たせした宮本正興氏には申し訳ないことをした。

 第二弾としては私が訳したマーム・ユヌス・ジェンのウォロフ語小説『アアウォ・ビ』が出る予定だが、まだいつになるかはわからない。

 叢書の扉に掲げた『「もうひとつの世界文学-多言語文学叢書」刊行にあたって』を以下に引く。


「もうひとつの世界文学-多言語文学叢書」刊行にあたって

 20世紀末、文学の「越境」が語られるようになった。それは、「イギリス文学」、「フランス文学」、「日本文学」など、国民国家の枠組のなかに配置された文学ではなく、それらの大言語を用いる「他者たち」の文学である。ドイツ語で書くプラハのユダヤ人、英語、フランス語で書くアフリカ系、あるいはアジア系の作家等々・・・しかし、「越境」は英語、フランス語、ドイツ語などの大言語を獲得した者たちの特権にとどまっている。

 21世紀に入って「世界文学」が語られるようになった。それは、各国文学の寄せ集めとしての「世界文学全集」が代表するかつての「世界文学」とは異質なものであり、翻訳を通して、時代も地域も限定されない幅広く立体的な世界理解を目指す姿勢といえるだろう。しかし、そこでも、語られるのは、英語をはじめとする大言語で書かれるか、そうした大言語の文学市場において商品化され得る「世界文学」である。たとえば英語などへの翻訳がもたらすバイアスにも自覚的なダムロッシュにおいても、コンゴ人作家はフランス語で書き、リゴベルタ・メンチュウもスペイン語で書く。かろうじて紹介されるナワトル語はかつてスペイン人宣教師によって書き留められたものである。池澤夏樹の世界文学でもアフリカは英語で語られ、「世界」は大言語を通してしか表現されない。

 しかし、世界には、そうした大言語の文学市場からは漏れ落ちる、翻訳市場には登場しない無数の文学的営為がある。英語で書いたエイモス・チュチュオーラの背後にはヨルバ語で書いたダニエル・ファグンワがいた。セネガルのマーム=ユヌス・ジェンは、都市のセネガル人女性の生をフランス語で書いたマリアマ・バーへの応答として、セネガル農村女性の生をウォロフ語で書いた。インドネシアの近代文学は「国語」となったインドネシア語だけでなく、スンダ語などの地域言語のなかからも生み出されていた。

 この叢書が試みるのは、大言語を通した「世界文学」が語らない世界、それらの言語へのアクセスが容易ではないために「知られざる」世界文学となっている「もう一つの世界文学」が語る世界にも分け入ることである。

2024年6月18日火曜日

ドクダミとセリバヒエンソウ

 


しばらく森の散歩ができない間に、3月から5月にかけて目を楽しませてくれた小径の道ばたの小さな花たちは姿を消し、むせるような森の緑の圧を感じるようになった。ドクダミの白い花があちこちで目につくが、4月によく見かけたセリバヒエンソウの可憐な花がまだ残っているのに気がついた。外来種らしいが、ヒメジョオンのように一面を覆い尽くすように繁茂するのではなく、片隅で控えめに咲いている感じだ。