半世紀前にアフリカ文学を自分の専門領域として標榜するようになった頃は「アメリカ文学」と聞き間違えられるか、怪訝な顔をされるかだったが、最近では大手書店には「アフリカ文学」というコーナーがあったりし、専門として研究する人たちもずいぶん増えてきて、隔世の感を覚える。最近ついに「アフリカ哲学全史」を表題とする新書が出版され(河野哲也著、ちくま新書)、高く評価する紹介記事を目にするようになった。大方が評価するものを批判するのは狭量と固陋のなせるワザかもしれないが、一言書き置きたい。
西欧のものとされてきた「哲学」を対象化し、人種主義と植民地主義を内包してきたヨーロッパの「哲学」を「脱植民地化する」という構えは了解できる。しかし、通読後の印象としては、残念ながら著者の語る「哲学」というものの底の浅さを感じざるを得ない。
日本の「哲学」「思想」は、実にしばしば欧米の」「哲学」「思想」の輸入学問でしかなく、「哲学者」「思想家」と言われる人々-とりわけ講壇の-は、これも実にしばしば高名な欧米哲学者などの紹介者でしかなかった。この「アフリカ哲学」もこの20年ほどの間に欧米(特に英語圏で)で論じられるようになった「アフリカ哲学」という欧米学会の潮流の輸入にすぎない、という印象が強い。
21世紀に入ったあたりから、欧米、とくに英語圏の人文学の中で「アフリカ哲学」という領域が存在し始め、アンソロジーや総括的紹介書が雨後の筍のように出版されるようになった。そうしたものを片っ端から読んで、チャート式のリストを作り、大急ぎでまとめ上げた、と言ったらいいすぎだろうか。日本語の文献にも目を通しているようだが、これも泥縄式にそろえた文献の都合のよいところだけを切り取ったような感じがする。
エメ・セゼールについての記述を読んでいると、明らかに私の「エメ・セゼール小論」(エメ・セゼール『帰郷ノート・植民地主義論』所収)から引き写したと思われる下りがあるが、それについての言及はなく、彼自身の文章として書かれている。単なる注記漏れかもしれないが、こういう例があると、他の記述についてもどこまで著者自身のものなのか不信感を抱いてしまう。
「知の三点測量を提唱する」という著者の宣言も気になった。川田順三が繰り返し語った「文化の三角測量」については何の言及もないが、聞いたこともないのだろうか。さらに「アフリカの哲学や思想に関する研究が(日本の)アフリカ学の分野で披露されることは、ごく少ないp.10」とまで断言されると、山口昌男や川田順三の業績をどのように捉えているのか聞きたくなる。
最後に論じられる「ヨルバ的認識論」や「アカン語の真理概念」なども聞きかじりならぬ読みかじりの印象が強い。
「ブリュッセルのアフリカ・レストランで「ザイールから来たカトリック神父」が一人で食事をするヨーロッパ人を見て嫌悪感を示した(一人で食べるのは動物で、人間は分かち合うものだ・・・)とか、西アフリカのヤムイモ料理をおいしく食べたら「アフリカ人以外でこんなにフフが好きな人間を初めて見た」と言われたとか、背筋が寒くなるようなクリシェを「本書の意図」で読まされるとため息しか出ない。「アフリカに哲学は存在するか」という著者の最初の問いの底の浅さを象徴している気がする。
これまであまり顧みられることのなかった領域に光を当て、人々が関心を持ち始める契機となることはよいことである。せっかく芽を出し始めたのに、十分に美しくないからと言ってその芽を摘んでしまう心の狭さをとがめられるかもしれない。森の散歩者の繰り言としてここだけの話にしておこう。
『アフリカ研究107』(2025アフリカ学会)に掲載された中村隆之の書評は、礼儀正しく敬意を表しながら、この本の問題を的確に捉えた優れた書評である。横のものを縦にしただけの「紹介」の問題を典型的に表している杜撰な固有名詞表記まで尊重するのはあまりにも「敬意」を表しすぎだと思うが。
ちなみに、ウブントゥということばが最近もてはやされているが、私ははなはだ懐疑的である。人種主義と植民地主義を正当化した西欧的価値に対する対抗価値として提示されるものだが、西欧近代が失った、あるいは破壊してしまったものが、その「近代」によって踏みにじられ否定されてきた非西欧世界にあるという言説は、20世紀後半からしきりに言挙げされてきた。とりわけ「独立」後のアフリカ諸国政権は、強権的統合、あるいは「国民」への動員のためにしばしば「西欧にはない」「アフリカ的」な価値を標榜した。サンゴールの「ネグリチュード」、ニエレレの「ウジャマー」、ンクルマの「アフリカン・パーソナリティ」、モブトゥの「オータンティシテ」など枚挙にいとまがない。類似のものは西欧においても近代の非人間性を批判する対抗価値として提示されることがあった。イリイチのコンヴィヴィアリティなどがそうである。イリイチのコンヴィヴィアリティというのも、近代批判は説得力があるが、対校価値として示されるのはなにかぼんやりした「心の豊かさ」や「人と人とのつながり」やらでしかなく、結局は中世回帰ではないか、という批判もあった。
何よりも、こうした議論がされるとき、とりわけ日本では竹内好がその問題を指摘した「近代の超克」をめぐる議論を想起する必要があるのではないか。
思想、哲学というものは、それを語ることでなにかほんわかとした気分になるのではなく、変革への具体的な実践へと人を促すものだったはずではなかったか。











