2025年9月24日水曜日

アフリカ哲学?ウブントゥ?

  半世紀前にアフリカ文学を自分の専門領域として標榜するようになった頃は「アメリカ文学」と聞き間違えられるか、怪訝な顔をされるかだったが、最近では大手書店には「アフリカ文学」というコーナーがあったりし、専門として研究する人たちもずいぶん増えてきて、隔世の感を覚える。最近ついに「アフリカ哲学全史」を表題とする新書が出版され(河野哲也著、ちくま新書)、高く評価する紹介記事を目にするようになった。大方が評価するものを批判するのは狭量と固陋のなせるワザかもしれないが、一言書き置きたい。

西欧のものとされてきた「哲学」を対象化し、人種主義と植民地主義を内包してきたヨーロッパの「哲学」を「脱植民地化する」という構えは了解できる。しかし、通読後の印象としては、残念ながら著者の語る「哲学」というものの底の浅さを感じざるを得ない。

日本の「哲学」「思想」は、実にしばしば欧米の」「哲学」「思想」の輸入学問でしかなく、「哲学者」「思想家」と言われる人々-とりわけ講壇の-は、これも実にしばしば高名な欧米哲学者などの紹介者でしかなかった。この「アフリカ哲学」もこの20年ほどの間に欧米(特に英語圏で)で論じられるようになった「アフリカ哲学」という欧米学会の潮流の輸入にすぎない、という印象が強い。

21世紀に入ったあたりから、欧米、とくに英語圏の人文学の中で「アフリカ哲学」という領域が存在し始め、アンソロジーや総括的紹介書が雨後の筍のように出版されるようになった。そうしたものを片っ端から読んで、チャート式のリストを作り、大急ぎでまとめ上げた、と言ったらいいすぎだろうか。日本語の文献にも目を通しているようだが、これも泥縄式にそろえた文献の都合のよいところだけを切り取ったような感じがする。

エメ・セゼールについての記述を読んでいると、明らかに私の「エメ・セゼール小論」(エメ・セゼール『帰郷ノート・植民地主義論』所収)から引き写したと思われる下りがあるが、それについての言及はなく、彼自身の文章として書かれている。単なる注記漏れかもしれないが、こういう例があると、他の記述についてもどこまで著者自身のものなのか不信感を抱いてしまう。

「知の三点測量を提唱する」という著者の宣言も気になった。川田順三が繰り返し語った「文化の三角測量」については何の言及もないが、聞いたこともないのだろうか。さらに「アフリカの哲学や思想に関する研究が(日本の)アフリカ学の分野で披露されることは、ごく少ないp.10」とまで断言されると、山口昌男や川田順三の業績をどのように捉えているのか聞きたくなる。

最後に論じられる「ヨルバ的認識論」や「アカン語の真理概念」なども聞きかじりならぬ読みかじりの印象が強い。

「ブリュッセルのアフリカ・レストランで「ザイールから来たカトリック神父」が一人で食事をするヨーロッパ人を見て嫌悪感を示した(一人で食べるのは動物で、人間は分かち合うものだ・・・)とか、西アフリカのヤムイモ料理をおいしく食べたら「アフリカ人以外でこんなにフフが好きな人間を初めて見た」と言われたとか、背筋が寒くなるようなクリシェを「本書の意図」で読まされるとため息しか出ない。「アフリカに哲学は存在するか」という著者の最初の問いの底の浅さを象徴している気がする。

これまであまり顧みられることのなかった領域に光を当て、人々が関心を持ち始める契機となることはよいことである。せっかく芽を出し始めたのに、十分に美しくないからと言ってその芽を摘んでしまう心の狭さをとがめられるかもしれない。森の散歩者の繰り言としてここだけの話にしておこう。

『アフリカ研究107』(2025アフリカ学会)に掲載された中村隆之の書評は、礼儀正しく敬意を表しながら、この本の問題を的確に捉えた優れた書評である。横のものを縦にしただけの「紹介」の問題を典型的に表している杜撰な固有名詞表記まで尊重するのはあまりにも「敬意」を表しすぎだと思うが。


ちなみに、ウブントゥということばが最近もてはやされているが、私ははなはだ懐疑的である。人種主義と植民地主義を正当化した西欧的価値に対する対抗価値として提示されるものだが、西欧近代が失った、あるいは破壊してしまったものが、その「近代」によって踏みにじられ否定されてきた非西欧世界にあるという言説は、20世紀後半からしきりに言挙げされてきた。とりわけ「独立」後のアフリカ諸国政権は、強権的統合、あるいは「国民」への動員のためにしばしば「西欧にはない」「アフリカ的」な価値を標榜した。サンゴールの「ネグリチュード」、ニエレレの「ウジャマー」、ンクルマの「アフリカン・パーソナリティ」、モブトゥの「オータンティシテ」など枚挙にいとまがない。類似のものは西欧においても近代の非人間性を批判する対抗価値として提示されることがあった。イリイチのコンヴィヴィアリティなどがそうである。イリイチのコンヴィヴィアリティというのも、近代批判は説得力があるが、対校価値として示されるのはなにかぼんやりした「心の豊かさ」や「人と人とのつながり」やらでしかなく、結局は中世回帰ではないか、という批判もあった。

何よりも、こうした議論がされるとき、とりわけ日本では竹内好がその問題を指摘した「近代の超克」をめぐる議論を想起する必要があるのではないか。

思想、哲学というものは、それを語ることでなにかほんわかとした気分になるのではなく、変革への具体的な実践へと人を促すものだったはずではなかったか。


2025年9月22日月曜日

彼岸花

 

少し体調を崩して2週間ほど森に行けなかった。久しぶりに森を歩くと、彼岸花が咲いていた。

宇土にいた頃は、ウォーキングコースになっていた轟水源公園までの間にはあちこちで彼岸花を見かけた。稲穂が黄金色に実った田んぼのあぜ道などに沿って彼岸花が一列に並んでいる光景は美しかった。泉村に向かう道路沿いの田んぼなどでは、さらに見事な彼岸花の列を見ることができた。しかし、このあたりには田んぼはなく(関東ローム層の痩せた土地で、見かけるのは芋畑と茶畑ばかりだ)、彼岸花の列を見ることはない。数本がポツンと咲いているだけだが、それでも数日は目を楽しませてくれそうだ。

隣家の軒下にも白い彼岸花が咲いている。

 

2025年8月12日火曜日

寒蝉鳴(ヒグラシ鳴く)


 今日は七十二候の寒蝉鳴(ヒグラシ鳴く)にあたる。二十四節季立秋の次候である。

数日間降り続けた雨がいっときやんだので数日ぶりに森を歩いた。雨の前の炎暑の森ではアブラゼミとミンミンゼミの鳴き声が暑さをいや増しにしていたが、今朝はヒグラシの声が立秋を感じさせてくれた。ツクツクボウシも声をそろえている。ちなみに、ツクツクボウシの漢字名も寒蝉で、どちらも指すらしい。鳴き声はまるで違うのだが、晩夏、初秋の蝉ということで一緒くたにされているのだろうか。

  それはともかく、春秋がほぼなくなり、夏の炎暑が常軌を逸した水準まで達しても、はるか昔に考えられた二十四節季七十二候が時折時節に合致するのは、古人の知恵の証か、それとも希望的正常化バイアスなのか。


2025年7月26日土曜日

グギ・ワ・ジオンゴ 2025年5月28日死去-「アフリカ文学」の時代の終わり

 

 白水社の『ふらんす』という雑誌で連載されている「アフリカン文学への招待」というシリーズに「<アフリカ文学>の時代の終わり」という短い文章を書いた(8月号)。むかし翻訳したモンゴ・ベティの『ボンバの哀れなキリスト』の紹介に絡めて、グギやセンベーヌについても少し触れた。なにかおしゃれな響きのある「アフリカン文学」といういことばには若干の違和感と喪失感を抱く。露骨な人種主義と支配の暴力がまだ生々しい現実である一方で、「人間」を存在させようとする強烈なエネルギーが熱く歴史を動かしていた脱植民地化の時代に生まれ、個々の作家、作品が社会にとって、世界にとって、しばしばとてつもなく大きな意味を持った「アフリカ文学」は、たぶんもう過去のものになった。21世紀に入った頃、「近代文学の終わり」が語られたことがあったが、もうその「終わり」でさえ終わったのかもしれない。

 私が「アフリカ文学」の研究者になる最初のきっかけとなったグギの『一粒の麦』については何度か書いたが(たとえば「随想」ページの熊野寮追懐、今回は、しばらく前に書いて結局日の目を見ることのなかったグギについての短い文章を掲載する。毎年秋のノーベル賞シーズンが近づくと、受賞候補にあげられている作家についての予定原稿の依頼が行われる。グギは何度もノーベル文学賞候補にあがっていて、私にも何年か前から新聞社などからの依頼が来ていた。結局グギは受賞することなく今年5月に亡くなった。用意した原稿は行く先を失った。原稿はノーベル文学賞受賞を受けての文章ということになっているので、その点は事実に反するが・・・私なりの追悼文としたい。

 

ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴは、文学の持つ力が衰退したと言われる現代において、故国ケニア、そしてアフリカだけでなく、全世界に対して、いまも大きな思想的、社会的影響力を持ち続ける希有な作家の一人である。そうした意味で、グギの受賞は驚きではない。サハラ以南アフリカの黒人社会の言語文化を背景とする作家としては、ナイジェリアのウォーレ・ショインカ(1986年)に次いで二人目の受賞者になる。

グギは、イギリスの入植者植民地であったケニアで、貧しい小作人の子として1938年に生まれ、マウマウ戦争と呼ばれた反英独立戦争のただ中でその思春期を送っている。その後、当時東アフリカの最高学府といわれたウガンダのマケレレ大学を経て、イギリスのリーズ大学で学んだ。在学中に東アフリカ最初の英語小説として出版された自伝的小説『泣くなわが子よ』(1964)は、兄がマウマウ戦争に参加し家族も弾圧にさらされる中で、一人エリート校に通う少年の苦悩と成長を描き、作家としての名声を確立した第三作『一粒の麦』(1967)は、独立に向けてのたたかいの中の人々のドラマと、それが残した傷跡と希望をみずみずしい筆致で描いている。

イギリスからの帰国後、グギはナイロビ大学英文科の教員となったが、1977年、その年に出版された小説『血の花弁』が政府と支配層へのあからさまな批判とみなさた上に、同様の批判を持ったギクユ語による民衆劇を制作、上演活動を行ったことがおそらく理由となって、裁判なしでの1年間の投獄を経験し、出獄後も大学への復帰は拒否され、1982年以降、イギリス、ついでアメリカでの亡命生活を余儀なくされることになった。

この経験は、グギに決定的な決断をさせることになった。グギは、すでに、キリスト教によるアフリカ文化の破壊を批判して、それまで使用していたキリスト教洗礼名ジェームズ・グギを捨て、伝統的命名法によるグギ・ワ・ジオンゴという名に改名するなど、独立後も続く支配層の文化的従属に対する批判的姿勢を明確にしていたが、出獄後、グギは、真のアフリカ文学は植民地支配者の言語である英語ではなく、アフリカ人の言語で書かれるべきであるとし、創作の言語としては英語と訣別し、以後自らの言語であり、民衆の言語であるギクユ語のみで執筆することを宣言したのである。出獄後に出版され、独立後も続く従属を象徴的な手法で批判したギクユ語小説『十字架の上の悪魔』(1980)は、獄中でトイレットペーパーに書き続けたものだったという。その後も『マティガリ』(1986)、 『カラスの魔術師』(2006)などのギクユ語作品を発表する傍ら、ギクユ語雑誌も発行している。

  英語、ついでギクユ語の小説作品で高い評価を受けてきただけでなく、グギは評論を通じて発信し続けるその思想によっても大きな影響力を持つ作家である。とくに、アフリカ人がヨーロッパの言語と価値観への従属を脱する必要性を説いた『精神の非植民地化』(1986)、欧米の資本と価値観が支配し、ナショナリズムや人種主義、性差別などが硬直させている諸文化を変革するために「中心を動かす」ことを説く『中心を動かす』(1993)は、広く読み継がれている。

 グギは1976年に初めて来日して以来、何度も来日しており、日本の作家、研究者との交流も深い。ギクユ語作品もほとんどが英訳されており、いくつかの小説、評論は邦訳もある。この機会にぜひ一度手にとってほしい。

 

 グギはとは三度会っている。いずれもアフリカ文学研究会が京都で主催あるいは共催したシンポジウムや集会にグギが講演者として参加した際のことで、通訳、アテンド、あるいはシンポジウムの司会としてかなり濃密な時間を過ごした。独特の早口の英語と握手したときの手の温かさを思い出す。



2025年3月21日金曜日

テイカカズラ

 


 冬の間、コナラなどの落葉樹は落葉し、森は少し明るくなる。3月になると森の小道沿いではウグイスカズラが淡いピンクの可憐な花をつけ始めているが、落葉樹に再び葉が茂るまではまだしばらくかかりそうだ。森の底(地表)は枯れ葉に覆われているが、その下には一年を通してテイカカズラやジャノヒゲなどの緑が広がっている。もっとも広い面積を覆っているのがテイカカズラで、ところどころで木の幹を這い上がり、ときには幹を覆い尽くしている。

 テイカカズラという名前が藤原定家に由来するということはぼんやりと知っていたが、それ以上調べようとしたことはなかった。先日たまたまネットで能の演目「定家」のことを知り、動画でだがはじめて能を通して見た。表題になっている定家は出てこない。ただ定家の恋の妄執が式子内親王の塚にまとわりつく蔦葛となって舞台上にあるだけである。銕仙会という能関係の団体のサイトには次のような要約がある。

 

京を訪れた旅の僧(ワキ・ワキツレ)が、にわか雨を避けるべく近くの東屋に向かうと、そこへ一人の女(前シテ)が現れ、この地はかつて藤原定家が雨の風情を眺めるために建てた“時雨亭”であると教える。やがて一行を式子内親王の墓に案内した女は、石塔を覆っている葛こそ定家の執心が変じた“定家葛”だと告げる。かつて内親王と定家とは恋仲であったが、世間に浮名が立ったため逢うことが叶わず、そうする内に亡くなった内親王を定家が恋い慕ったために、こうして今なお纏わりついているのだった。女は、自分こそ内親王の霊だと明かすと、束縛の苦しみからの救済を願いつつ、姿を消してしまう。

僧が弔っていると、塔の内に憔悴した式子内親王の霊(後シテ)が現れた。僧は法華経の功徳によって葛をほどいてやり、彼女はついに抜け出すことが叶う。感謝の舞を舞う内親王であったが、彼女はあらわになった自らの衰えを恥じると、むしろ人知れず定家と二人で愛欲の苦海に生き続けることを選び、最後には自ら石塔へと戻ってゆくのだった。

 

  二人の恋は後世の風説に過ぎないという話もあるが、定家は1162年生まれ、式子内親王は1149年生まれで、13歳の年の差があるが、定家がはじめて式子内親王のもとに伺候したのが1181年というから、式子内親王はまだ32歳で、20歳まで賀茂神社の斎院を務めその後も結婚を許されない立場の彼女に19歳の若い定家が大人の色香を感じ恋したというのはありそうな話ではある。そして受け入れることのできない恋情に密かに心乱される内親王の姿を想像するのも難しくはない。

 能のゆるやかな踊りとたたみかけるような謡が強い印象を与える。これまで関心を持ったことがなかったが、一度直接見てみたい。

ただ、その後森で木の幹を這い上がるテイカカズラを見るたびに、なにか心穏やかではない。

2025年1月15日水曜日

水野の森

 北中の森は所沢市北中と狭山市水野にまたがっているが、北端の水野側に「ロッジ水野の森」という一角がある。柵などで仕切られているわけではないが、モミジやムラサキシキブの若木が植えられていて、晩秋には見事な紅葉が楽しめる。敷地の中には小さなロッジがあり、そこには下のような説明板がある。


 以前にも書いたことがあるが、このあたりは江戸時代はじめまでは住む人のない地域だったらしい。いまもこのあたりでできるのは茶と芋くらいで、田んぼはまったく見かけない。秋には黄金の稲穂の波をいたるところで見ることができ、刈り入れ前のあぜ道に真っ赤な花の列を見せてくれる彼岸花を楽しめた熊本から来たばかりの頃は、所々に茶畑があるほかは砂埃と芋畑ばかりの風景がとても殺風景に感じられた。そんな中で見つけたのが森の散歩コースで、自宅の周辺に広がる平地林は、春から夏の新緑と秋の紅葉と、森から出ると目の前に広がる秩父の山々、そして空気の澄んだ冬の朝にご褒美のように姿を見せる雪をかぶった富士、季節々々の小さな花々、等々、目を楽しませてくれる。

 「開設の趣旨」に書かれているように、水の恵みがあり、古くから人が住む狭山丘陵の農家の次男三男がこのあたりの不毛の土地に「畑一反に林一反」と木を植え、武蔵野の空っ風から家と畑を守るとともに落ち葉で徐々に土地を肥えさせていったらしい。さらに江戸中期には、北の川越藩から農家が入植し、田畑を広げていったという。西武新宿線の線路を越えた向こうに「十四軒」という地名があるが、そのとき入植した14軒の農家が地名の由来である。その地名が掲げられた交差点には小さな社があるが、入植者たちが祭った社なのだろう。

 ロッジの持ち主はそうした入植者から平地林を引き継ぎ守り続けてきた方らしい。15代目ということだから、一世代30年で考えて400年あまり(ちょっと長すぎるか・・・江戸時代中期頃からだとすると300年くらいか?・・・)この雑木林を守り続けてきたことになる。ここを拠点に平地林を守るNPO活動も行われているらしい。

 ところで「百里すすきの原、月の入る山とてなし」と平安時代から言われてきた、とあるが、調べても出典がわからない。室町後期以降の歌らしい「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」というのはというのは出てくるが・・・山もなくただひたすらすすきの原が広がる武蔵野というイメージは、むしろ開拓の始まった江戸時代に作られたものなのかもしれない。


2024年10月12日土曜日

倒木、秋の花々

 

 数日前、長雨の合間に森を歩くと、あちこちで倒木が道をふさいでいた。たぶんすでに枯れていたナラの木だろう。今年の夏も常軌を逸した暑さだったから、耐えられずに枯れてしまった木も少なくなかった。ただ、雨の間少し風が強かったとはいえ、こんなに何本もの木が倒れるのは少し異常である。

 しかし、森の小径沿いでは秋の花があちこちで目を楽しませてくれる。紅白のミズヒキやキンミズヒキ、あるいはイヌタデ、ヤブラン・・・しばらく前からお茶の花が咲いていたが、実をつけているのもあった。この辺りには狭山茶の産地で、あちこちに茶畑があるが、それだけでなく、武蔵野の強風で畑の土がとぶのを避けるためか、畑を囲む生け垣として茶の木が使われている。そうした茶の木の種が風でとばされて森の道沿いで育ったのだろう。

 先週咲いているのを見た彼岸花は、昨日歩いたときにはもう花が終わっていた。



2024年9月4日水曜日

平地林の伐採2 資材置き場 残土処理場


 3月に道路沿いの平地林が伐採されて更地になってしまった後、しばらくして森の散歩道への入り口になっているところも伐採されてしまった。3月に伐採されたところは売り地の看板が立てられたまま更地のまま残っているが(ただ、2区画のうち1区画は売却済となっている)、こちらはしばらくして重機が入って整地が始まり、8月末には砂利が入れられ塀で囲まれてしまった。実は、この横には以前から森に隣接して大きな資材置き場があったのだが、その資材置き場が拡張されたようだ。

 先日、別の場所で一部木々が伐採されていたので、ここもか、と胸が痛んだが、今日通ってみると、伐採後に何本か苗木が植えられていた。弱ったり枯れたりした木を切って、若苗を植えて森を再生しようということのようだ。少し安心した。

 しかし、心配なことはほかにもある。三年前に越してきた頃はコロナ禍でいろいろな経済活動が停滞していたおかげで森は静かだったが、経済活動の再開とともに森をおびやかすような動きが目につくようになった。森のほぼ真ん中を通る少し広めの道も、以前は、ときどき自転車で森を通り抜ける人たちを除けば、私のような散歩者たちしかいなかったが、最近、大型ダンプが道幅ギリギリを無理矢理進んできて脇によけることを余儀なくされることが多くなった。この道沿いには、以前から、幅10mあまり奥行き100mくらいの空き地があり、入り口がショベルカーと中型トラックでブロックされていたのだが、昨年までは何の動きもなく、気になりながらも半ば慣れてしまっていた。ところが今年に入ってから、ダンプが毎日のように残土を運び込み始め、いまでは5m位の高さまで土砂が積み上げられている。最近はほぼ毎朝、南アジア系の若者を含む数人が常駐している。森に悪影響がないかかなり心配である。


2024年7月17日水曜日

久しぶりに森へ。

 


雨や体調不良などでしばらく森に行けない間に、いろいろな野草が花をつけていた。

花は可憐なのに、アレチヌスビトハギ(荒れ地盗人萩)だとかイヌタデ(犬蓼)だとか、酷い名前をつけられているのが多い。おなじ萩の仲間でも、ミズヒキ(水引)は赤白の水引から来ているのだろう。比較的よい名前がついている。

 春先から咲いているアカツメクサが、森
のそばの運動場でまだ咲いていた。アカツメクサなどというものがあることは、つい数年前まで知らなかった。シロツメクサは、入学したばかりの中学校の校舎の傍らにたくさん咲いているのを見て初めて知ったが、この花を初めて見たのは、退職祝いで筑後川温泉に行ったとき近くを散策していたときだった。

 ワルナスビも酷い名前だが、この名はあまり気の毒に思わない。花を見ようと手を伸ばすと鋭い棘で痛い目にあわされた。花が似ている茄子から来ている名前だが、茄子は棘があっても食すとうまいから許せるが、ワルナスビには寛大な心にはなりにくい。

いま知っている植物の名前の大半は、退職後、森やその近辺を歩いていて覚えたものだ。なんとも心貧しい生活をしてきたものか、と思わないでもない。

2024年7月11日木曜日

グギ・ワ・ジオンゴ、多言語文学叢書


  グギ・ワ・ジオンゴ+グギ・ワ・ミリエ『戯曲 したい時に結婚するわ (もう一つの世界文学/多言語文学叢書) 』(宮本正興訳、三元社)が間もなく出版される。三元社の「多言語文学叢書」の第一弾である。コロナなどがあって遅れ、6年目でようやくスタートした。

 「多言語文学叢書」は、2018年に東京大学東洋文化研究所で開催された「多言語社会研究会」第10回研究大会のあとで行われた多言語社会研究会20周年パーティがきっかけだった。そこで、あまり翻訳されることのない言語で書かれた文学作品の翻訳企画の話題が出たのである。大会からしばらくして本郷の三元社に私と荒井幸康氏(モンゴル諸語)、森山幹弘氏(スンダ語、インドネシア語)などが集まって、企画を相談した。叢書趣意書のたたき台を私が作り、当初「マイナー言語文学叢書」という叢書名を提案したのだが(ドゥルーズ、ガタリが『カフカ——マイナー文学のために』で「マイナー文学とは、マイナー言語による文学のことではなく、メジャー言語のなかにマイノリティが生み出す文学」と言っていたことを念頭においていた・・・)、「何のことか分からない」と大変評判が悪く、結局三元社石田社長の「多言語社会研究会が出発点だから『多言語文学叢書』にしましょう」という提案が採択されたのだった。


 叢書のスタートは日本でもある程度知られているケニアのグギ・ワ・ジオンゴのギクユ語作品からにできればと思い、グギがギクユ語で書き始める前から親交があり、最初のギクユ語作品『したいときに結婚するわ』についても詳細なノートを作っておられた宮本正興氏(スワヒリ語、ギクユ語)に依頼し快諾を得た。丁寧な注釈のついた訳稿と解説文は一年足らずで完成していたのだが、いろいろな事情で遅れに遅れたままになってしまった。長くお待たせした宮本正興氏には申し訳ないことをした。

 第二弾としては私が訳したマーム・ユヌス・ジェンのウォロフ語小説『アアウォ・ビ』が出る予定だが、まだいつになるかはわからない。

 叢書の扉に掲げた『「もうひとつの世界文学-多言語文学叢書」刊行にあたって』を以下に引く。


「もうひとつの世界文学-多言語文学叢書」刊行にあたって

 20世紀末、文学の「越境」が語られるようになった。それは、「イギリス文学」、「フランス文学」、「日本文学」など、国民国家の枠組のなかに配置された文学ではなく、それらの大言語を用いる「他者たち」の文学である。ドイツ語で書くプラハのユダヤ人、英語、フランス語で書くアフリカ系、あるいはアジア系の作家等々・・・しかし、「越境」は英語、フランス語、ドイツ語などの大言語を獲得した者たちの特権にとどまっている。

 21世紀に入って「世界文学」が語られるようになった。それは、各国文学の寄せ集めとしての「世界文学全集」が代表するかつての「世界文学」とは異質なものであり、翻訳を通して、時代も地域も限定されない幅広く立体的な世界理解を目指す姿勢といえるだろう。しかし、そこでも、語られるのは、英語をはじめとする大言語で書かれるか、そうした大言語の文学市場において商品化され得る「世界文学」である。たとえば英語などへの翻訳がもたらすバイアスにも自覚的なダムロッシュにおいても、コンゴ人作家はフランス語で書き、リゴベルタ・メンチュウもスペイン語で書く。かろうじて紹介されるナワトル語はかつてスペイン人宣教師によって書き留められたものである。池澤夏樹の世界文学でもアフリカは英語で語られ、「世界」は大言語を通してしか表現されない。

 しかし、世界には、そうした大言語の文学市場からは漏れ落ちる、翻訳市場には登場しない無数の文学的営為がある。英語で書いたエイモス・チュチュオーラの背後にはヨルバ語で書いたダニエル・ファグンワがいた。セネガルのマーム=ユヌス・ジェンは、都市のセネガル人女性の生をフランス語で書いたマリアマ・バーへの応答として、セネガル農村女性の生をウォロフ語で書いた。インドネシアの近代文学は「国語」となったインドネシア語だけでなく、スンダ語などの地域言語のなかからも生み出されていた。

 この叢書が試みるのは、大言語を通した「世界文学」が語らない世界、それらの言語へのアクセスが容易ではないために「知られざる」世界文学となっている「もう一つの世界文学」が語る世界にも分け入ることである。