2026年4月14日火曜日

フランツ・ファノンと言語

 

 拙論「フランツ・ファノンと言語-フランス的普遍の呪縛」を投稿していた『スワヒリ&アフリカ研究』(大阪大学外国語学部スワヒリ語・アフリカ地域文化研究室)が3月末に発行され、大阪大学の学術リポジトリで公開された。

 昨年のファノン生誕100周年という節目に向けて、映画が作られたり、シンポジウムや雑誌の特集などが相次いだが、半世紀前ゲバラとともに「第三世界革命の思想家」としてイコン化されたファノン像が、多少意匠をかえて、今度は世界変革へのパトスをかき立てる思想としてではなく、知的なおしゃべりの題材としてもどってきたような印象を受ける。

この論文は、そうした動きとはまったく関係がない。2年前に発表した論文「『プレザンス・アフリケーヌ』と言語の政治」の姉妹編であり、もともとは中村隆之氏主催の東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所共同研究「『プレザンス・アフリケーヌ』研究 新たな政治=文化学のために」(2015-2017年度)での報告が原型となっている。そのときの報告では『プレザンス・アフリケーヌ』についての議論の結びにこの論文のもとになるファノンについての論考をおいていたが、議論の焦点をしぼるために別に論じることにしたのである。

これまでファノンに焦点をあてて論じたことはないが、エメ・セゼールについての卒業論文を書いたとき以来、ファノンは私にとって常に重要な参照点でありつづけた。50年以上前に買ったみすず書房の『フランツ・ファノン著作集』はいまも手元にある。とくに加藤晴久、海老坂武氏訳の『黒い皮膚白い仮面』、鈴木道彦氏、浦野衣子氏訳の『地に呪われたる者』は、当時の日本の製本技術の高さ故に韋編三絶することはなかったが、書き込み、傍線のないページがほぼないほど繰り返し読み込んだ。マスペロの原書の方はまさに韋編三絶した。

しかし、アフリカの脱植民地化の時代を学び続ける中で徐々に分かってきたことは、ヨーロッパ語で思考する植民地エリートたちと同じ問題をファノンも抱えていたということである。おそらく理解してくれる人は多くないと思うが、一度論じておきたいと考えた。セゼールはマルティニックに帰還することで、限界を意識しつつも自らの場を作り上げていくことがまがりなりにもできたが、ファノンには脱植民地化の時代の中でしか自らの場を見いだすことができなかった。ファノンの死はゲバラの死と同様、解決されることのない袋小路の唯一の出口だったのかもしれないと思う。

1950年代から60年代にかけて、むきだしの暴力と殺戮が植民地支配者の言語であった脱植民地化の時代に、ファノンはたしかに被支配者の側にたって自らの思想を語り、それを生きた。しかし、彼の生きた時代から半世紀以上を経て振り返るファノンは、当時の西欧思想のなかで、より具体的には、サルトルとメルロポンティの概念を用いて思索するファノンであり、彼がそのために自らの人生を賭し、自称した「アルジェリア人」ファノンではありえない。アーネスト・ゲルナーが言ったように、アルジェリア革命の基底を形成したのはベン・バーディスらの改革派イスラームの思想であり、ファノンは彼らとはまったく違う場で思考していた。

ファノンが脱植民地化の時代のアイコンであり得たのは、アフリカの脱植民地化を主導したのが英語、フランス語などを通して当時のヨーロッパの変革の思想を身につけた植民地エリートたちであり、ファノンは彼らとともにある限りにおいて、「被植民者」の側に自らの場を見いだしたからにほかならない。しかし、実はこのエリートたちは植民地原住民の代表などではなく、植民地支配者と同じく植民地社会の上に漂う隔絶した社会で植民地支配者と同じ言語で思考する者たちだった。ベン・ベッラらFLN指導部の上滑りな汎アラブ主義や社会主義も実質的にフランス語で語られていたのである。

サルトルはフランス的普遍の外側から見つめ返されることの「戦慄き(おののき)」を感じることができたが、見つめ返されることのない一方的な眼差しであり続けようとしたファノンにとって、見つめ返す眼差しは彼を窒息させるのである。

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